タトゥーはどうしてダメなのか

先日、TBSテレビで放送されていた『水曜日のダウンタウン』という番組の中で
<コワモテ男性、一度は「お前に娘はやらん」と言われたことある説>
という説が検証されていました。

番組内では、タトゥーだらけだったりピアスだらけだったりする男性が登場して、「門前払いだった」とか「意外にOKだった」いうようなエピソードを語っていました。

一緒に見ていた母は、かなり引き気味で、私(娘)が「こういう結婚相手連れてきたらどうする?」と聞くと、「大反対」と言っていました。
母曰く「顔面ピアスはまだしも、全身タトゥーはさすがに無理」とのこと。

私は、「タトゥーってそんなに嫌かな??」「ちょっと引いてしまう気持ちはわかるけど、さすがに門前払いはどうなの?」と思いました。


みなさんは「人は見かけによらぬもの」という言葉、どう思いますか?
これは、人の内面は見かけによらないので、外見で人を判断しちゃいけないですよ、という意味ですよね。
私は概ね納得できる言葉のように思うのですが、哲学の教授はこれを全否定していました。
教授曰く「この言葉が生まれたの当時は『士農工商』があった時代で、階級が決められていたため、自分で外見をコントロールすることができない(学問に秀でた人でも農民であれば農民の外見)時代。そういった場合に『人は見かけによらぬもの』という言葉は適応されるのであって、現代の日本社会のように「外見に内面を表現する時代」にはそぐわない。人は外見に内面を表現するのだから、むしろ外見で人を判断して良い。」とのことです。

確かにタトゥーはだいたいの人が入れたくて入れているもので、タトゥーを入れることで周りからどんな目で見られるかというのは、入れる前から予想がつくことですよね。

そう考えると、哲学の教授が言っていたこともあながち間違ってはいないような気がしてきます。
ってことは、つまり、タトゥーを入れている人を外見で判断して、門前払いしてもいいと。
最近しきりに「多様性を認めていこう」とか言っているわりに、タトゥーはダメなんだ、と。


もしそうなら、そこには排除の線引きがあるように思います。
「生まれつき」
「もともと」
「事故で」
「わざとじゃなくて」
そういう人は「多様性」として認めるけれど、それ以外はダメ。
「自分の意思でそうなったか」という線引き
自分の意思とは関係なく、そうなってしまったのなら、仕方のないことだから、認める。
でも自分の意思でそうしたのなら、非難されても、差別されても、仕方ない。
ここ数年で話題になった地毛証明書は、その最たる例と言えるかもしれません。
生まれつきなら許されて、ただのオシャレなら許さない。

うーん。
それでいいのでしょうか。

とはいえ、親が結婚に反対したくなる気持ちも分かります。
娘がタトゥーだらけの人と結婚したら、娘も、娘の子供も偏見にさらされるかもしれません。
現実は甘くないのです。考え方の問題は二の次。

「門前払いされたくないならタトゥーなんて入れなければ良い」という意見もありますよね。
この意見も、間違いじゃないと思います。

温泉やプールで、タトゥー入りの人が入れないのも、仕方のないことかもしれません。
反社会的な人たちの多くが、慣習としてなのか、タトゥーをいれています。
そういう人たちを見た目で判断し、入店を禁じ、利用客の安全を守るのは、便宜的合理性があり、そうしなかった場合のリスクを考えても、企業としては間違った対応ではないと思います。


それでもやっぱり、私は「本当にそれでいいのか?」と思ってしまうのです。

だって、タトゥーって、誰かに迷惑がかかったり、法に触れたりするものではない。
不利益を被る大決心をしなければ、タトゥーは入れちゃいけないのでしょうか。
「タトゥーを入れている人を一括排除する人」より、「排除されるとわかっていてタトゥーを入れた人」の方がいけないのでしょうか。
タトゥーを入れているからと言う理由で人を傷つける権利が、果たして誰にあるのでしょうか。

自分の意思でそうなったかも何も関係なしに偏見や排除が横行していた(LGBTの拒絶など)一昔前を考えれば、「多様性を認めよう」という流れが生まれていることは大きな一歩だと思います。
しかし、その「多様性」からははみ出る人もいて、それは、今までのマイノリティよりも、もっとずっと排除されやすい構造を抱えたマイノリティ。


考えたことを、まとまりもなくただひたすらに書いてしまったので、読みづらい記事になってしまったかもしれません。


「多様性」って何でしょうか。
みなさんは、どう思いますか?

 

itoi

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