反抗期とは何か

ここ最近、考えごとカテゴリーの記事が増えました。
変なことばかり気になるというか、考えちゃうのですよねぇ…。

今回は「反抗期」について。

さて、タイトル通りです。
反抗期とは何でしょうか?

通説では、反抗期は2回おとずれると言います。
いわゆる幼児のイヤイヤ期と、思春期の「クソババア!」期ですね。
そして今回考えたいのは後者の反抗期です。

みなさんは反抗期、ありましたか?
なかったって人もまぁまぁいると思うんですけど、私はありました。
何もかもにイライラしていて、ティッシュ箱を蹴飛ばしたり、部屋のドアをわざわざ音が鳴るように勢いよく閉めたり、食事中に無言で席を立ったり、わかりやすい反抗期だっただろうと思います。

当時、自分が反抗期であることを自覚していましたが、それでも反抗せずにはいられない自分がとても歯がゆかった記憶があります。
だから私は「反抗期っていったい何なんだ」と、ぐるぐる考え続けていました。

ネット記事なんかを読むと、「自分の言いたいことをうまく言葉にできないから反抗する」とか「自我の芽生え」とか「自律するための儀式」「親の価値観から抜け出すために、大きなエネルギーが必要」なんて書いてあるのですが、どれもあまりしっくりこないなぁ、と思ってしまいます。

よくドラマとかで見る「クソババア!」っていうセリフとかは、明らかに自分の言いたいことをうまく言葉にできていない感じがしますし、自分も当時「説明できないけど嫌なんだ!」っていう気持ちが少なからずありました。

だから、ネット記事でよく挙げられているような側面も、もちろんあると思うのです。
でも一方で、少なくとも私の場合は、それが核心ではないという気がしていました。
そんな説明では納得できないと思っていました。

イライラして、ぐるぐる考えて、時間が経って。
そしてそのまま反抗期が終わろうかという時、私の中で「あぁ、これだ」と腑に落ちる答えが見つかりました。

それは、「反抗期は、親への失望を受け入れたくないという葛藤の時期だ」という説明です。

少しキツい言葉を使いましたが、これが「反抗期とは何か」という問いに対する、私の答えです。

小さな頃、私にとっての親は、いわば神であり、正義そのものでした。
親の言うことは絶対に間違っているはずがなく、絶対に正しく、何よりも信じられるものだと思っていたのです。
でも、成長していくにつれ、親の言うことと学校で習ったことが違っていたり、私が知っていることを親が知らなかったりという状況が増えていきます。
当然のことですけどね。
そうやって、親は神でもなければ、この広い世界の小さな小さな一個人でしかないのだと気づいてしまうのです。
ガックリきてしまうのです。
「失望」と表現しても差し支えないほどに、です。

ここまでは「自我の芽生え」とか「自律するための儀式」というような言葉でも説明できることですね。

でも、私の考える反抗期は、さらにもう一段階のステップがあります。
それは、神ではない親を受け入れたくない、親に神であり続けて欲しいという不可能な願いを持ってしまうということ。
そしてその願いを叶えてくれない現実を認めたくないがために葛藤し、神であり続けてくれない親を恨めしく思ってしまうのです。

これは、私だけの感覚かもしれません。
友達とこんな話をする機会もないので、私の気持ちが一般的なものなのか否かの判断ができないのです。
みなさんの反抗期は一体何だったのか、というコメントを、書いていただけると嬉しいです。


でもやはり、(親への失望はともかく)反抗期は「悲痛な叫び」のようだと思います。
取り戻すことができないものを取り戻したいという、苦しい叫びのように思えるのです。
そして、取り戻すことを諦めるか、取り戻す必要がないと思えるようになって、反抗期が終わるのではないでしょうか。

私の場合は、両親を人間として、完璧ではないし、自分と意見がすれ違うこともあるけど、素敵な人で、尊敬できる人で、大切な人だと思えたから、乗り越えられたのだと思います。

今は、父とは趣味や性格が似ていて話すのが楽しいですし、母とは2人だけのノリや笑いのツボがたくさんあって友達のように話しています。


前の記事でも同じようなことを書いた気がしますが、何事も、生きる上で重要なのは「自分が納得できるか」だと思います。
私は反抗期という謎の現象を「親への失望を受け入れたくないという葛藤の時期」だと納得することで消化しました。
記事を書きながら、「共感してもらえそうな内容じゃないかも」という気持ちが強くなってきましたが、みんなの共感より、私1人の納得の方が貴重です。

ぜひ、みなさんそれぞれの「反抗期観」も考えてみてください。


itoi

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