DaiGoさんの一件から私が感じたこと

メンタリストDaiGoさんの差別発言から10日ほどが経ちました。

この件の経緯や批判については、いろいろなところに載っているので、そちらを見ていただきたいと思います。
※記事の最後にオススメ記事リストを載せておきました。

この件に際してDaiGoさんが行った配信は計4つあり(そのうち3つは既に削除されていますが)、私は全てを視聴しました。

言葉にすることが難しい感情がたくさん、芽生えては消え、いろんなことを考えさせられました。

このブログ記事は、DaiGoさんの発言の問題点を指摘するものではなく、私が感じたことをつらつらと書き連ねるものになります。

知識は人をやさしくする、と信じたかった

DaiGoさんはメンタリストとして有名になりました。
しかし今では、あの本だらけの部屋が印象づけるように、「知識の人」としてのイメージが強くなっています(実際、DaiGoさんが運営する「Dラボ」は「知識のネトフリ」を標榜しています)。

論文の引用方法や解釈が不適切だったりミスリーディングだったりするという指摘もありましたが、私自身「とはいえそこら辺の人よりは勉強しているよね」と思っていました。

だから、私がDaiGoさんの差別発言について最初に感じたのは、「どうして」というやり切れない気持ちでした。

あれだけたくさんの本や論文を読んでいても、大切なことは全然わかっていないんだ、という失望でした。

たかまつななさんが動画で、「DaiGoさんの家にある本棚は何だったんですかね」と話していましたが、まさにぴったりな表現だと思いました。

「理論武装」して誰かをねじ伏せ、強さを誇示することで、知識の価値を歪ませてしまうのは、すごく悲しいことだと思います。

私の尊敬する博識な人たちは、知識による強さのなかに(あるいは強さのもっと手前に)やさしさをもっている方ばかりです。

だから、知識は人をやさしくしてくれるんだと思っていました。

私も知識を増やして、ちょっとでもやさしくなりたいと思っています。

でも、道具は使い方と言われるように、知識も使い方だということがよくわかりました。

知識量に裏付けられた「強さ」や、自負やプライド、万能感……そういうものが人を盲目にさせるのかもしれません。

本当のことは、本や論文のなかになんかない

大学生の頃、ある尊敬する先生がこんなことを言っていました。

「本を読んだり論文を書くのも大切だけど、本当のことは、そんなところにはないとも思うんです」

大学の先生がそれ言っちゃっていいのかよ、と思いながら、すごく重みのある言葉だとも思いました。

こういうことは、いろんな人がいろんなところで言っていて、ありきたりなのかもしれません。

でもこれは、常にそして何度でも確認したいことです。

シンエヴァで綾波が読書ではなく田植えで学んでいったのも、そういうことなのではないでしょうか。

辺見庸さんのルポルタージュ『もの食う人びと』のあとがきにも、こんなことが書かれています。

世界とはいつも新聞記事のたかだか数十行、数百行のなかで解釈可能な対象なのであり、データベースに入力できない情勢も風景もあり得ないという建前のなかで私は働いていた。世界とはまた、私という解釈者によってただ解釈されるためにのみある、時差表つきの紙一枚の地図のようななにかなのであり、それ以上でも以下でもなかった。なんという思い上がり!私は通信社の外信部デスクの職務にあり、溢れるほどの記号的情報をもとに、怒りの色も悲しみの色も交えない賢し顔で、世界のありようを冷静に手短かに分析してみせるのを常の業としていたのだ。
引用元:辺見庸,1997,『もの食う人びと』角川書店.

私は世界を鮮やかに実感することができなくなっていた。(中略)そこにあると目には見えても感触がないのである。つまりは、他者の歓びも苦しみも呻き声も、私には届かない。音抜き、におい抜き、手触りなしの資料写真のようなものになってしまったのだった。生きていてそれほど悲しいことはない。
引用元:辺見庸,1997,『もの食う人びと』角川書店.

DaiGoさんの目に世界がどう映っているのかはわかりません。
でも、足りなかったのはこういうことだったのかもしれないと思います。

そしてそれは、私も簡単に陥る可能性のある(あるいは既に陥っている)状態です。

DaiGoさんの「学び」を受け入れることを表明した、NPO法人抱樸 理事長の奥田知志さんは、ホームページで「学び」について次のように述べています。

「学ぶ」と言うことは、自分を一旦切開し自分の闇を見つめることから始まります。単なる知識の上塗りではなく自己批判を伴う営みだと考えています。本当の「学び」は知識を得ると言う事では全くなく自分のしてしまったこと、あり方を一旦否定することから始まると考えます。それを棚上げにして「学ぶ」ことは出来ません。DaiGo氏は、一旦ひとりになり、自分を見つめて欲しいと思います。そして今回傷つけた人々の痛みを全身で感じてもらいたいと思います。「学び」とはそういう事だと考えています。ですから、抱樸としては安易に「学び」の場所を提供し事柄を済ませることはしません。徹底的に自己批判していただき、厳しく自らと向かい合ってもらうための対話を重ねたいと考えています。すべては、そのような「学び」をご本人が心から望んでおられるかということです。私たちは、それを常に問いかけていきたい。
引用元:DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について(NPO法人抱樸ホームページ)

私自身も、学ばなければならないことがたくさんあります。

引き返せるかどうか、そのせとぎわ

私は、反省動画や謝罪動画を見て、DaiGoさんは一線を越えてしまったけど、引き返したと思いました。完全な差別扇動者になってしまう、そのせとぎわです。

炎上した配信の次の配信でも、DaiGoさんは悪びれる様子もなく持論を展開していました。
それなのに、数日の内に態度を変えて謝罪することができたのは、どうしてでしょうか。

実際どうだったかはわかりませんが、DaiGoさんが周りに恵まれていたということは、理由のひとつかもしれません。

怒ってくれる家族がいて、どうにかしたいと思ってくれる友人がいた、そのことが大きかったのではないでしょうか。

特に茂木さんが「茂木健一郎と大切な友人2人」というLINEグループを作って奥田さんとDaiGoさんを繋いだというエピソードは、心に残るものがありました。

亮吾さんのような家族や、茂木さんのような友人をもっていたことが、DaiGoさんが「せとぎわ」で引き返すことのできた大きな理由なのかもしれません。

そして、そのような家族や友人をもたない人たちのなかから、加害者がうまれるのかもしれないと考えると、どうしようもない壁にぶつかったような気持ちになります。

もし私が「せとぎわ」にいたら、強く手を引いて引き戻してくれる人がいるだろうか、と不安にもなります。

もし家族や友人が「せとぎわ」にいたら、私は心を砕いて怒ることができるだろうかと、自問してもいます。

そんな関係性を、探し続けていきたいと思います。

itoi

おまけ:オススメの記事リスト

DaiGo氏の差別発言に関する見解と経緯、そして対応について | 認定NPO法人 抱樸(ほうぼく)
北九州を拠点に、生活困窮者や社会からの孤立状態にある人々の生活再建を支援してる認定NPO法人です。
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