どうして席を譲らないと責められるのか

電車で席を譲るべきか論争。

「妊婦なのに席を譲ってもらえなかった」
「席を譲ったら老人扱いするなとキレられた」
「若者が席を譲らないからおじいさん同士が席を譲り合っていた」
「席を譲らなかったら睨まれた」
などなどのエピソードが、ネット上では今まで何回も何回も何回もバズってきましたよね。

そのたびに、いろんな意見が飛び交っていて、人々の関心度が高い話題だということは確かなようです。

ブログのネタにしておいて言うのもアレですが、私はこの「電車で席を譲るべきか論争」、嫌いなんですよね。
見るたびに「うるせぇ~~~~!!!!!!!」って言いたくなる。
議論してもだれも意見を変えないし、違う意見の人同士が否定し合うだけになっている気がするから。

今回は、「どうするべきか」ではなく、「どうしてなのか」を考えてみたいと思います。


タイトル通りの問いです。
どうして席を譲らないと責められるのか。

まず最初に、「道徳に反するから」という答えが浮かびますが、果たして本当にそうなんでしょうか。

電車を譲るか譲らないかという判断には、色々な要素が絡んでくるわけですよね。
私は特に、その日の自分の疲労度や、精神的余裕などに、大きく左右されます。
めちゃくちゃ怒られた日とか、失恋した日は、人に優しくする余裕なんかない。
でも、ちょっといいことがあった日とか、気分が良いときはすぐに譲る。
そんなもん。
それぞれの事情や判断基準があるのに、事情も知らずに自分の基準を当てはめて責めるのは、そっちの方が思いやりにかける気がします。

突拍子もないことを言いますが、電車で席を譲るのは、誕生日を祝うのと似ているところがあるんじゃないかとふと思ったことがあります。

つまり、席を譲られる可能性が高い状況だと自覚している人は、席を譲られることを期待してしまっているのではないか、ということです。
そして期待を裏切られると、必要以上に悲しくなったり、イラっとしたりする。
これは、誕生日なのに誰にも祝ってもらえない時の感情とそっくりだな、と。

だから、席を譲ってもらえると思っていたのに譲ってもらえなかった人が、たまにキレたりする。
(このキレるというのも面白くて、だいたいの場合「日々の不満の積み重ねがある出来事で限界を突破する」のがキレるということだと思うんですよね。だから、キレられた人って本当に不運だなと。そういう理不尽っていっぱいありますよね。特に接客業なんかは、はけ口にされやすいのかなぁと思います。)


大学生らしく学問分野からも。
社会学用語に「儀礼的無関心」というものがあります。

「儀礼的無関心」とは、「たまたま同じ場所にいるだけの他人同士が、干渉しないけど無視もしない、丁度いい距離感を保つという一種の(暗黙の)礼儀作法」と考えてください。
これに当てはめて考えると、電車で席を譲らない人は、譲ってほしい人の期待を裏切っているだけでなく、「儀礼的無関心」的にもルール違反をしていると受け取られる場合があるのです。
裏切られただけでなく無視もされた状態の「譲られたかった人」は、ダブルでショックを受けるので、不満が募るのかもしれません。
そして、ルール違反は第3者が見ても不快に思うことがあるものですので、別の人が「譲ってあげてください」と注意したり声をかけたりするのも、説明がつくというわけです。

社会学的には 、電車内での化粧や電話がどうしてマナー違反なのかということも「儀礼的無関心」で説明されています。
気になる人はこの記事がオススメなので読んでみてください。↓

電車内での化粧を多くの人が嫌がる社会学的理由
「電車内」は、極めて特殊な場所だといえる。私語禁止というほど厳しい規制はないが、かといって路上ほど自由が許されるわけではない。社会学で「儀礼的無関心」と呼ばれる、こうした公共空間での暗黙のマナーとは?


でも単純に疑問なことがあります。
みんなは席を譲るのか?
譲るべきだって思ってるのか?

そこで、身心の状態を設定して、アンケートを取りました。
(投票してくれた人、ありがとうございました!)

このアンケートはあくまで「このツイートを見て、アンケートに答える気になった人」が母数なので、これが一般に当てはまるかどうかは分かりません。投票数も少ないし。

まあでも少なくとも、58票の中では、
(自分が身心ともに疲れている状態で)
席を譲るべきだと考える人が約50%
席を譲る必要はない、譲りたくないと考える人が約50%

で、きれいに割れました。

実際に席を譲るのは約30%
席を譲らないのは約70%

という結果でした。

気持ちと行動が伴っていない人が多い問題だということも、わかりました。


誕生日の話も儀礼的無関心の話も、根底には、譲ってもらえるんじゃないかという期待がありますよね。
でも、アンケートの結果から考えるに、そういう期待はしない方がいいんじゃないか、ということが言えそうです。
「譲ってもらえたらラッキー」程度に考えるのが、精神衛生上よろしいんじゃないでしょうか。

でもじゃあ、自分がどうしても座りたい時も、我慢しなければならないのかというと、それも違うと思います。
世の中には、色んな困難を抱えながら、しかし仕方なく、混んだ電車に乗らなければならない人が多数います。そして、それは見た目でわかるものばかりではありません。
だから、「私はしかじかの事情で立っているのがとても辛い。もしあなたが立つのが辛くなければ、数駅だけ座らせていただけませんか。」と声をかけるのが、今のところ正解だという気がします。
アンケート結果でも、半数の人が「席を譲るべきだ」と考えていることがわかったので、まぁ、高確率で譲ってくれるんじゃないでしょうか(多分)。
(それでみんなが譲ってくれるかどうか実験したいのですが、立っているのが辛い事情がないので、妊娠でもしたらやってみようかと思います。)


電車に乗っているのは、それぞれ別々の事情、背景、環境で生きている他人同士ですよね。
それなのに「言わなくても分かってくれる」「察してほしい」と考えるのは、無理があると思います。
それができないから非道徳的だというのも、的外れかなと思います。
これは、道徳の問題ではなくて、コミュニケーションの問題だと考える方が、妥当なのではないでしょうか。


「何も言わなくても譲り合える温かい社会にしていきたい!」という意見もあろうかと思います。
確かにそうなったらいいですよね。
それが実現している国もあるそうですが、そうなるためには、意識を見直すというより、労働環境などなどが是正されなければならないのではないかと思います。


最終的に自分の意見まで言っちゃいましたが、「どうして席を譲らないと責められるのか」には、概ね納得できました。

1.「席を譲る」という行為が広く一般的に道徳的な善い行いとされている
2.席を譲られる可能性が高い状況だと自覚している人が、席を譲られることを期待している
3.「儀礼的無関心」に違反している


このあたりが、現時点で私が理由として納得できることです。

みなさんはこれに納得できるでしょうか。
色々な理解の仕方があると思うので、良かったらコメント等で教えてください。


itoi

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