もう12月だというのに、いまだに「まだ秋なのではないか」という希望的観測を手放せずにいます。
2021年をまとめよう、振り返ろう、という気はまだまだしませんが
今回は、今年最も納得感のあった言葉について、そして「若さ」や社会への責任について考えたことを書いてみたいと思います。
2021年、最も納得感のあった言葉
今年、もっとも買って良かった雑誌をご紹介します。
9月に発売された「WIRED」VOL.42です。
「コモンズと合意形成の未来」というテーマに惹かれて、手に取りました。
この雑誌の中でみつけた、ケヴィン・ケリーという作家の言葉が、唸るほど刺さりました。
こんな言葉です。
将来の問題のほとんどは、今日わたしたちがつくっている解決策から生まれることになる。つまり、現在の問題を解決するためにしていること自体が、将来には問題になるということだ。だから自分たちがいま手にしている解決策に対しては、とても謙虚でなければならない。技術的な解決策であれ社会的な解決策であれ、それは自分たちが直面している問題に対してのものであって、明日にはそれが問題になるのだから。
引用元:松島倫明(2021),ミラーワールドはデジタルコモンズの夢をみるか ケヴィン・ケリーに訊くコモンズの過去・現在・未来,WIRED,42,31.
これを読んだとき、「私の抱えていた葛藤はまさにこれだ」と思いました。
自分がしていることは、やがて次の問題になる。
私は、こんな当たり前のことと、どのように向き合えばいいのかわからないでいます。
「若さ」とは
私はこれまで、ソーシャルアクション・社会運動と呼ばれるようなことに、すこしは参加してきたと思っています。
署名活動をしてみたり、政策提言をしてみたり、私なりに熱量をもって活動してきました。
それは、今ある社会への抗議であり、今ある社会を作り上げたすべての大人たちへの抗議でもありました。
「これまでの努力も知らないで、被害者面で、善人ぶって、文句を言うこと以外なにも成し遂げていない若造が、えらそうに。」
私のことをそんなふうに言う方もいます。
実際、今の私から見た過去の私は、自分の暴力性や加害性にほんとうに無自覚でしたし、そういられる若さを持っていたと思います。
(きっと未来の私からみたら、今の私も足りないことだらけなのだろうと思います。)
それは、「未熟」とはまた別の種類のものであるように感じます。
犯した暴力の、加害の、責任の少なさが、無自覚でいることを可能にするのかもしれません。
最近、若さとは、「こんな現状」を作り上げた歴史に対する責任の少なさなのかもしれない、と思うようになりました。
社会規範という暴力
この世界には社会規範という暴力があります。
例えば「男らしさ」「学生らしさ」「日本人らしさ」みたいなもの、あるいは法律や道徳がそうです。
これらは、時に人の命さえも奪う抑圧・暴力です。
そして、社会規範を内面化し反復する私たちひとりひとりもまた、暴力に荷担するという暴力を行わされています。
(それは、認められ受け入れられて生きる上で必要であり、一旦はどうしようもないことです。)

上智大の出口真紀子先生の講義を受けた時のメモ。Aは反差別主義者、Cは積極的差別主義者、Bは消極的差別主義者。
誰かを苦しめる社会規範は絶えず問い直す必要があり、そのために行動しないことは、差別や暴力に荷担することである、と私は思っています。
しかし、社会にはさまざまな規範や差別があり、すべてに行動を起こすことは不可能です。
それどころか、いくら行動しても、また別の自覚のないところで、きっと自分は社会的な抑圧の担い手になっているのです。
これからもっと、苦しくなる
「若さ」とは、「こんな現状」を作り上げた歴史に対する責任の少なさなのかもしれない、と書きました。
したがって、歳をとることは「こんな現状」を作り上げた歴史に対する責任が増え続けること、なのかもしれません。
生きた年数が長ければ長いほど、抑圧や暴力に(消極的にではあれ)荷担し続けた年数が増え、何かできたかもしれないのに何もしなかった年数が増えます。
どんなに社会規範に声をあげて活動しても、「こんな現状」を作り上げた歴史に対する責任は消えるどころか、増え続けていくのです。
そしてその責任の重さに耐えきれなくなったとき、もしかしたら私は「若い」人からの叱責を恐れるようになり、自分を肯定するために現状を肯定するようになってしまうのかもしれません。
私は、それが何より怖いと思っています。
Z世代の活動家
このブログ記事を書こうと思った、きっかけのツイートがあります。
これです。
Z世代の活動家、というと聞こえはいいが、結局は大人が払いきれなかった負債のため、本来インプットに専念すべき年齢の若者に、貴重な若さを犠牲に「仕事」をさせているというだけな件について
— 鈴 / Rin Yamabe (@carpediem_530) December 4, 2021
140字ではとうてい伝えきれない、いろいろな思いのこもったツイートなのだろうと思います。
でも、5000以上の「いいね」がついたこの投稿に、私はすごくモヤモヤしました。
「Z世代の活動家」が誰のことなのかは、よくわかりません。
例えばこういう動画に出てくるような人が「Z世代の活動家」なのだとしたら、動画に一瞬映り込んでいる私も「Z世代の活動家」の端くれなのかもしれません。
#Z世代 #ジェンダー平等 が #流行語大賞2021 のトップ10に入りました。https://t.co/mJKatbyKTGで立ち上がったオンライン署名も、Z世代の若者によるものや、ジェンダー平等の実現に向けたものが数多くありました。「流行語」で終わることのないよう、私たちは声をあげる全ての人を応援します。 pic.twitter.com/SkjXMHFMYi
— Change.org Japan(チェンジ・ドット・オーグ) (@change_jp) December 2, 2021
もしそうであるならば、大人が払いきれなかった負債のために、自分を犠牲にして「仕事」をしている「Z世代の活動家」という像は、あまりにも私の気持ちと乖離しています。
もちろん「活動」とやらは、たくさん時間も労力もとられるものです。
そのこと自体には、辟易しています。
時間も労力も費用も持ち出しでやって、矢面に立って叩かれて、ボロボロになってしまう人がいることに、それを許す社会に、怒ってもいます。
でも私からすれば、それは抑圧や暴力に荷担しないためにできる唯一のことなのです。
誰かに押しつけられた仕事ではなく、私が在りたい私で在るために、できることをしているに過ぎません。
(みんなにそうあれというわけではなく、あくまで私はそう感じているという話です。)
この乖離はいったい何なのか考えてみたくてこの記事を書きましたが、まだ答えはみつかりません。
わたしにできること
私が正しいと思ってやることも、次の世代を苦しめる課題にきっとつながっています。
だから、ケヴィン・ケリーが言うように、自分たちが今手にしている解決策には、謙虚で内省的であり続けなければなりません。
そのうえで、私は今日も「自分ができることをやろう」と思うのでした。
itoi
