命か、経済か。
この1年あまり、そんな議論が、あちこちで繰り返されたように思います。
「感染抑制」か「経済回復」か。
「少数の命」か「多数の生活」か。
「きのこの山」か「たけのこの里」か。
究極の二択なんて言葉がありますが、まさにそんな感じです。
命と経済の天秤は、行き着くところ、命と命の天秤だとも言われています。
なぜ私たちは、こんな二択を迫られなければならないのでしょうか。
経済に握られた心臓
私たちは、お金がないと生活できません。
衣食住、水道・電気・ガス。
私たちの命(生活)は、経済に握られています。
私たちが「命と経済」で「命」をまっすぐに選び取れないのは、経済も命だから。
命と命なんて、選べるはずもありません。
経済と命が切り離されていれば、良かったのに。
お金がなくても生きていければ、良かったのに。
世界中の天秤
命か経済か。
この二択を迫られるのは、コロナ禍だけではありません。
考えてみれば、お金のために命を犠牲にしなければならない人は、コロナ以前から世界中にいました。
たとえば、チェルノブイリ原発事故の立ち入り禁止区域で、貧困をしのぐために汚染された食物を食べていた人。
たとえば、ラナ・プラザで建物の亀裂に気づきながらも、出勤し続けた人。
今日の命のために、未来の命を犠牲にしていると言い換えてもいいのかも知れません。
命と命の天秤です。
命を人質に取る経済に、資本主義に、根本的で構造的な問題を感じざるを得ません。
これを解決するのには、時間がかかります。
具体的な方法も、あんまり思いつきません。
でも、「命か、経済か?」なんて選択は、もう終わりにしたい。
世界中で。
命をこの手に取り戻すために
命か、経済(に握られた命)か。
こんな選択を最後にするために、できること。
それは、命と経済をできる限り切り離す努力ではないかと思います。
たとえば、コミュニティ・フリッジというものがあります。
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コミュニティ・フリッジは、誰でも好きな時に食べ物を取りに行ける、公共の冷蔵庫です。
貧困だけではなく、フードロス対策や、地域の交流拠点という意味でも注目されています。
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この冷蔵庫は、「食」と「経済」を、ちょっとだけ切り離してくれそうです。
生活者レベルでできることには限界もあります。
でも、その限界は、私たちが思うよりけっこう遠くにあるとも思います。
できることは、まだまだある。
考え、行動し続ける人でありたいと思います。
itoi