気を使わないという気遣い

今回は久々に、私の性悪なところが全面に出たブログ記事になります。

読んでも気分は良くならないし、なんの知識も得られません。

しかも無駄に長いです。

ご注意ください。

気遣いが嫌い

いつもわからないことがあります。

気遣いについてです。

優しい気遣いに救われたことは何度もあるけれど、基本的に私は、あからさまで露骨で見え透いた気遣いが嫌いです(根本的に性格が終わってる)。

自分が「気を使ってもらわなければならない存在」になっている、ということが嫌なのかもしれません。

例えば、何か難しい話をしている時、難しい単語が出てきたみたいな状況です。

「あ、ごめん、〇〇って単語の意味、糸井さんに伝わってるかな?もし伝わってなければ言ってね!」……というような、優しさ。

「私はわかるけど、あなたはわかっていなさそうだね」という認識があってこその発言でしょうか。

「私はあなたより立場が上だから、下のあなたに手を差し伸べるのだ」という優越感、そして「そんな気遣いのできる自分は素晴らしい人間なのだ」という満足感。

自分が優越感や満足感を得ているということに無自覚な、その笑顔。

非の打ち所がない優等生、性格も良くて、誰からも尊敬される……そういう人が無意識にばら撒く優しさ。

それらは、私のような自尊心だけ変な方向に膨れ上がった人間には耐え難い時があるのです。

教育なんてものをしようという人間は

私は長らく、これと良く似た嫌悪感を、教師にも抱いてきたような気がします。

「こんな難しい問題を解けるなんて、すごいね」とか、
「先生もみんなと一緒に学んでいきたいと思います」とか。

私は「こんな難しい問題」を先生がすらすら解けるのを知っていたし、他のみんなの方が私よりずっと早く解けるようになったことも知っていました。

「みんなと一緒」とか「対等」とか言うのに、先生が使う教科書にだけ特別な文字が書いてあるのも知っていました。職員室で他の先生と話している時と、私に話している時では話し方が違うのも知っていました。

私の機嫌をとって、あるいは尻を叩いて(物理じゃないよ)、勉強させようと、あの手この手で「指導」する。

結局、下に見ているじゃないか。

どこが対等なんだ。

最初から対等なんかではないのだから、対等になる気なんてないのだから、そんな素振りを見せないでくれ。

「いい先生」になったつもりになって、一人だけ勝手に満たされるのをやめてくれ。

そんなことのために私を使わないでくれ。

そんな風に思っていました(本当に昔から性格が終わっちゃってるんですごめんなさい)。

優等生にあるのは優しさ。
教師にあるのは教育的意図でしょうか。

どちらも1mmだって間違いではなく、正しく、美しいのです。

そして、そういう「安全圏」から発せられるものだからこそ、恐ろしいと感じます。

じゃあ、お前は?

こういうことを考えていると、当然「でも、私だって人に気遣いをするじゃないか」という問題にぶち当たります。

そして、考えれば考えるほど、わからなくなってしまいます。

気遣いをしないという気遣いをすればいいのか、でも一方で最低限の気遣いはあるだろうとも思えるし、しかしそのボーダーラインはどこなのか、相手に気づかれないように気遣いをするにはどうすればいいか、いや、それすらも余計な気遣いなのか……。

もちろん言葉だけではなく、態度、表情、話す速度、会話のちょっとした間、そういうもの全てが影響します。

自分が強者の側だ、ということに気付くのはとても大切だと思いますが、それは同時に弱者を認識することでもあります。

しかし、その人が弱者として扱われたいかどうかはわかりません。気遣いを受け取りたいかはわかりません。

「あなたに気遣いをしている」というメッセージは好意的に受け取られる場合もあります(むしろ一般的にはその場合の方が多いのかも)。

むしろ、何もしなければ「気遣いがない人」の烙印を押される危険性さえあります。

相手の表情、場の雰囲気、自分の立場、環境、すべてを足し引きして丁度いい気遣いを探してみたりしますが、それが良いのか悪いのかも良くわかりません。

私が「私に嫌われない私」になるためには、どうすればいいのでしょうか。

へりくだる気持ち悪さ

ちなみにですが、自分から「自分は下で、あなたは上です」「だから施してください」というメッセージを発している人も、見ていると気持ち悪いです。

尻尾を振っている、こびを売っている、と表現するのかもしれません。

「下の人間に手を差し伸べるのは気持ちいいでしょう?」「私を使って気持ち良くなってください」「その代わり、施してください」と言っているように見えるのです。

謙譲語なんてものがあるくらいですから、私自身もそうした感覚を少なからず内面化していて、自分自身を省みて吐き気がする時があります。

対等だなんて勘違いをする­から傷つく

本来、人と人は対等であるべきだと思いますが、上下関係があり、主従関係があり、利害関係があるのが現実です。

こんな現実の中、自分が他人と対等であると思って生きていると、「対等なんかじゃなくお前は下にいるんだ」「弱者なんだ」というメッセージを暗に受け取った時に傷ついてしまう。

だから、「私はもともと下の人間なんだ」と自分で自分に言い聞かせて、予防線を張ってしまう。

「自分は下の人間です」というメッセージを自ら発して、ハードルを下げにいく。

そうやって必死に傷つかないように努力しているのに、「みんな対等だよ」と囁く誰かのせいで、たまに期待してしまう。

そしてまた、勝手に一人で傷つく。

なんて不毛なんだろうと思ってしまいます。

みなさんはどうやって折り合いをつけて生活しているんでしょうか。

ぜひ参考にさせて欲しいです。

おわりに

今日は、まとまりのない考えをダラダラと書いただけになりました。

似たような議論が、マイノリティ支援や障がい者支援の文脈でされていたような気もします。

きっと他の誰かも似たようなことを考えて、私「なんか」よりずっと上手な言葉で説明したんでしょう(早速予防線を張りまくる私……)。

最後に、謝罪を。

私に今まで優しく気遣いをくれた人、先生、その他気分を害した人、ごめんなさい。

私の周りには教師になろうとしている人、すでに教師として働いている人も多くいるので、もし嫌な気持ちになった方がいたら本当に申し訳ないです。

ひねくれ小学生だった私みたいな子にも、慕われる素敵な先生になってください。

itoi

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