殺処分に反対する快感

2018年の1年間で、殺処分された犬猫の数は、43,216匹だったそうです。
出典:「犬・猫の引取り及び負傷動物の収容状況」(環境省)

殺処分がどれほど痛ましいかということは、わざわざここで言及するまでもありません。

これに加えて、引き取られるのを待つ犬や猫も、たくさんいます。
ものすごい数です。

殺処分数は年々減っていますが、問題が根本から解決に向かっているわけではなく、愛護団体に大きなしわ寄せがいっているのが現状だと聞きます。
「殺処分ゼロ」は簡単ではありません。



さて、今回、私がブログに書きたいのは「動物がかわいそう!」とか「殺処分をしないで!」という内容ではありません。

むしろ、「動物がかわいそう!」とか「殺処分をしないで!」という語られ方に対する、疑問を書きたいのです。



殺処分はなくすべきだろうと思います。
私も、殺処分には反対です。
社会に対して、この問題を訴えていかなければならないとも思います。

しかし、「殺処分をしないで!」なんて言い方をしていいのか、立ち止まって考えるべきなのではないかと思います。

動物を、自分たちの都合で支配することを始めたのは人間です。
殺処分によって実現された安全な住環境を享受しているのは、人間です。
何もかもが、人間のせいです。

逃れられない罪です。

それなのに、犬や猫の味方になることで、罪から逃れようとする語り方が良しとされることに、とても違和感を感じています。



テレビ番組の特集を30分ほど見ただけで、まるで自分が被害を受けた弱者であるかのような態度で、「殺処分をやめて!」と懸命に叫ぶ人たちがいます。
犬や猫の気持を私が代弁している、私は犬や猫の味方、犬や猫を捨てる飼い主を許さない……。

さぞ、自己肯定感の上がる行いでしょう。
さぞ、満足でしょう。

でも、それはとても身勝手な言動なのではないかと、私は思ってしまいます。

殺処分は、人間全体の都合で行われる虐殺です。
これは、犬や猫の命を救う献身的な活動をしている人でさえ、背負い続けなければならない罪です。
動物愛護団体の人も、愛犬家の人も、広い意味では加害者なのです。
なぜなら、すべては人間が始めたことであり、現在も私たちは殺処分によって守られた住環境の恩恵を享受してしまっているから。

それなのに、殺処分の恩恵を享受し続けているにもかかわらず、犬や猫の味方であるかのように振る舞うというのは、誠意がないように見えるのです。

奴隷のおかげで豊かな生活をしている市民が、「奴隷さんがかわいそうだよう!(泣)」と言っているのと同じです。
加害者であることに無自覚な勘違いヒーローには、目も当てられません。



社会の流れは、殺処分ゼロへ。
この流れは、間違っていないはず。
でも、私たちは「かわいそう」だなんて言える立場ではない。

これは、犬や猫のために「何をするか」ではなく、「どう語るか」「どう考えるか」というレベルでの話です。

自分だけ犬や猫の味方になって、加害者から抜け出すなんて、セコいのです。
自分の罪の意識を和らげることに、犬や猫を利用しないでほしいのです。

これ以上、犬や猫の命を踏みにじらないでほしいのです。



この考えが正しいかどうかは知りません。
こんな記事を書いて何になるのかも分かりません。

でも、溢れ出るモヤモヤを、書かずにはいられませんでした。
犬や猫に対する誠意って、何なのでしょうか。

itoi

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